2010-11-30

26年前の今日は?

1984年10月30日に当時の電電公社(現在のNTTグループ各社)が、大都市圏を中心にサービスを開始した。


キャプテンシステム (CAPTAIN System, Character And Pattern Telephone Access Information Network System) は、日本電信電話公社NTT、NTT分割後はNTTコミュニケーションズが、電気通信役務として提供していたビデオテックスサービス。
ロゴは、「P」の部分が「?」、「I」が「!」とし「CA?TA!N」と読める様にデザインされていた。

システム開始の背景 [編集]
電電公社は、第五次5ヵ年計画により、一般加入電話の積滞解消と全国自動即時化という2大目標達成後、1978年から始まる第六次5ヵ年計画で今後高度化、多様化するであろう画像通信、ディジタル通信ネットワーク等に関する高度情報化に向けた取組みを始めた。この一連の取組みによるシステムは、ニューメディアという言葉で紹介された。武蔵野市に武蔵野電気通信研究所が設置されていたこともあり、1984年には、武蔵野、三鷹地区でINSモデルシステムの実験が開始された。衛星放送、高速ディジタル伝送サービスといった高度伝送サービス、ファクシミリ通信網やVRS(ビデオレスポンスシステム、オンデマンドビデオシステムのこと)などの画像システムが実用化された。 キャプテンシステムもこれら一連のニューメディアサービスのひとつとして、1984年に当時の電電公社(現在のNTTグループ各社)が、大都市圏を中心にサービスを開始した。

システム内容 [編集]

テレビをモニタとしたテレビアダプタ型端末(キャプメイト)をアナログ電話回線を利用して情報センタに接続することで、センタに蓄積された文字画像情報の提供を行った。接続時にセンタ番号入力することにより、センタ番号で指定された情報センタに接続する方式であった。日本電信電話公社が用意した情報センタは、センタ番号「36100」でキャプテン情報センタ(全国キャプテン)という。まず166(ビデオテックス接続の特番)をダイヤルし、プププという発信音を確認して、センタ番号を入力すると情報センタに接続される。情報センタ接続後に表示されるページ間の移動は、画面上に表示されている数字と#(例: 01#)を入力、もしくは*と数桁の数字を入力し移動する仕様になっていた。
各地に第三セクターの情報提供会社が設立され、郷土情報、生活情報の提供を行った。自治体国鉄といった公共機関や、近畿日本鉄道の「テレメイト」などの企業も情報提供ページを設置していた。情報提供内容としては、ネットショッピング座席予約BBSや、オホーツクに消ゆポートピア連続殺人事件等のゲーム試遊といったサービスも提供されていた。これらの情報提供者を、インフォメーションプロバイダ (ISP) と読んでいた。
キャプテンシステムの利用は、一般電話回線を利用したため個人の自宅の電話回線からビデオテックス通信網にアクセスすることも可能だった。
サービスを利用するためには専用端末機器の購入が必要であった。通信料(ビデオテックス網への接続料)は時間課金による従量制で、距離区分はなく全国均一で3分30円、夜間、土・日・祝日は5分30円であった。

2010-11-28

127年前のきょうは?

わが国初の洋式社交クラブ・鹿鳴館開館(1883年)
明治16年(1883)11月28日、東京麹町山下町に、西洋社交クラブ・鹿鳴館がオープンしました。
この鹿鳴館のオープンは外務卿・井上馨が強力に押し進めて実現したものです。井上馨は、関税や治外法権など種々の問題を抱えた不平等条約を改正すべく、その基層にある西洋の日本蔑視を改めさせるには、日本の文化が西洋並みに高いことを示威する必要があると痛感していました。そこで、西洋風の社交クラブの設立に動いたのです。
この鹿鳴館を設計したのはイギリス人の若き建築家・ジョサイア・コンドル(Josiah Conder1852-1920)。明治10年に来日し、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の教師として多くの人材を育てました。彼が設計した建物は他に、帝国博物館(現東京国立博物館)、ニコライ堂、三菱の岩崎久彌邸、などがあります。日本女性くめと結婚、大正9年東京で亡くなりました。
鹿鳴館の建築費は18万円。当時の物価から考えると現在の40億円くらいに相当するものと思われます。あちこちの部門からかなり無理して予算を拠出させています。建坪410坪。レンガづくりの2階建て。イタリアルネッサンス風に英国風を加味した美しいデザインでした。
オープン当日は西洋風の衣装に身を包んだ600人の紳士・淑女が集まりました。1885年になるとルルー率いる軍楽隊が吹奏楽を演奏。貴族たちはダンスに興じます。ここに集まった人々の雰囲気は西洋人から見るとやや失笑するようなものであった、とも言われますし、また日本の伝統を重んじる人々からは眉をひそめられます。しかし、新しもの好きの人たちには文明開化の象徴として映り、『鹿鳴館時代』を到来させます。
そして、この鹿鳴館は井上馨が意図した条約改正に向けての下地にも必ずしもならなかったようですが、約10年後1894年。日本はようやく不平等条約の改正に成功します。

2010-11-27

109年前の今日は?

ノーベル賞制定記念日

1901年11月27日、ノーベル賞の第一回の授賞式が行われました。
これを記念して、11月27日はノーベル賞制定記念日になっています。
なお、現在では授賞式はノーベルの命日にあたる12月10日に行われることになっています。
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明家として知られるアルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel, 1833.10.21-1896.12.10)が遺言で定めたものです。ノーベルはベニヤ板の発明者イマニュエル・ノーベル(Immanuel Nobel, 1801-1872)の三男です。ストックホルム生まれですが、父がロシアのペテルスブルグで機雷製造の仕事を始めたため、家族でそちらに住んでいましたが、やがて父が事業に失敗、帰国します。そのころから彼は安全に取り扱える爆薬はないものかというのを一所懸命研究していました。当時の主役は1847年にAscanio Sobrero (1812-1888) が発見したニトログリセリンなのですが、これは少しでも衝撃を与えると爆発してしまうので、誤爆事故が頻発しており、彼の弟のエミルも犠牲になっています。ノーベルは色々な試行錯誤の結果、ニトログリセリンを珪藻土に染みこませることを考案しました。そして導火線を付けて火で爆発させようとしたのですが、ニトログリセリンというのは、充分強い衝撃を与えれば珪藻土に染みこませた状態でも爆発する癖に、火を付けても爆発しない、こまった物質です。そこで考えたのが雷管(primer)でした。細い管の中で物質を急に燃やすと、ガスが物凄い勢いで膨張します。
この反応が激しければ一部の膨張は音速をも超え、衝撃波が発生します。爆轟(ばくごう)という現象で、この揺れを使って珪藻土に染みこませたニトログリセリンに衝撃を与えて起爆するわけです。(正確には雷管の発明の方が、珪藻土の利用を思いついたのより先らしい)彼はこの新しい爆破システムにギリシャ語のデュナミス(力)からダイナマイトという名前を付け、そのあと、母国スウェーデンでは、いわゆるスウェーデン鋼の生産の現場などで、大いに役立つことになります。
また彼はこの技術を利用して武器の製造や油田開発などの事業に力をそそぎ、1896年に亡くなった時には、3100万クローネ(今のお金にすると100億円くらい?)もの資産が形成されていました。遺言状が曖昧だったため親族の間で遺産争いが起きるのですが、最終的には遺言書の趣旨に従い、資産は財団化されて、毎年、物理、化学、医学生理学、文学、平和の分野で貢献のあった人に、賞金が贈られることになりました。これがノーベル賞の始まりです。
なお財団はその後の運用や寄付などにより、現在約40億クローネ(600億円)ほどになっています。ノーベル賞の選考は、スウェーデン王立科学アカデミーが物理・化学賞を、王立アカデミーが文学賞を、カロリンスカ大学が医学生理学賞を、そしてノルウェー国会が平和賞を担当しています。
そして平和賞以外はストックホルムで、平和賞だけはノルウェーのオスロで授賞式が行われます。
この平和賞だけがノルウェーになっているのは、ノーベルの遺言にそうあったからなのですが、なぜそうなっているのかは理由不明です。
ノーベル賞の中に不自然に数学賞が無いのは、ノーベルが若い頃、数学者に恋人を奪われたせいであるなどという説もありますが、俗説の域を出ないと思います。またダイナマイトが軍事で使用されて人がたくさん死んだのを見て悲しんでこういう賞を制定したというのは、よくあちこちに書かれているのですが、彼はもともと子供の頃から父が軍事産業で働いてきたのを見ており、また自ら武器製造会社を経営していましたので、あり得ない気がします。
孤独な人であったようなので、ノーベル賞には色々謎があります。なお、しばしば「ノーベル賞は後に経済学賞が追加された」と書かれているのですが、これはスウェーデン国立銀行が1968年に設立300周年を記念して創設し運用している「ノーベル記念経済学賞」のことで、ノーベル賞とは無関係です。
但し選考はノーベル賞と同じ、王立科学アカデミーが行い、授賞式も12月10日に行われています。
また数学の分野ではカナダのJohn Charles Fieldsが1936年に「フィールズ賞」を創設し、「数学のノーベル賞」と一般に言われています。こちらはノーベル賞が、過去に大きな業績を残したもののかなり年配の研究者に贈られることが多いのがおかしいとして、受賞年齢を40歳以下に限定していて「大発見をして、これからも精力的に研究をしてくれそうな研究者」に贈られることになっていて、ノーベル賞よりも敷居が高いと言われています。
日本人でノーベル賞を受けたのは次の12人です。
湯川秀樹(1949物理)  朝永振一郎(1965物理) 川端康成(1968文学)             江崎玲於奈(1973物理) 佐藤栄作(1974平和)  福井謙一(1981化学)             利根川進(1987医学)  大江健三郎(1994文学) 白川英樹(2000化学)             野依良治(2001化学)  田中耕一(2002化学)  小柴昌俊(2002物理)               またフィールズ賞は 小平邦彦(1954)と広中平祐(1970)と森重文(1990)
が受賞しています。

2010-11-26

 75年前の今日は? 

日本ペンクラブ創立、今日はペンの日、日本ペン・クラブは昭和10年(1935年)のこの日に創立されました。初代会長は島崎藤村です。ペン・クラブは、文学を通じて諸国民の相互理解を深めそれぞれの社会における表現の自由の擁護を目的とした国際的な文学者の団体です。昭和40年(1965年)30周年を記念してこの日が設けらました。

2010-11-25

57年前の今日は?

57年前の今日1953年11月25日は東京会館でパリのデザイナー、クリスチャン・ディオールのファッション・ ショーが開催され、ディオール旋風が起る 1953年に大丸と提携してファッションショーを開催して進出。ちなみにこのショーは日本で始めて行われたファッションショーともいわれている。その後、カネボウが独占販売権を獲得。長くライセンス生産を行っていたが、LVMH社のライセンスを絞る方針により、97年2月7日ディオールはカネボウとの契約を同年4月30日に解消すると発表。自ら輸入品を販売することとなり、97年秋冬をもってライセンス生産は終了した。当時、カネボウのディオール関連売上は500億円に上るといわれており、紳士・婦人服だけでなく、ストッキングやソックス、ベビー服、本国にはないゴルフウェアまで多岐にわたっていた。

2010-11-24

本日、今よりブログ始めました

只今よりブログはじまりです。このブログは名前のようにアーカイブ、昔のことを題材ネタにした、ブログとしたいです。皆様にお役に立てるよう記事になればと思います。